2019年11月21日木曜日

夢に苛まれた話


今さら何をやってももう遅いのでは?意味がないのでは?という気持ちが普段から強い。

そのため、やりたいことに対する努力も、できるときとできないときがある。

とはいえ、四の五の言っているわけにもいかないので、何とかして気力を上げ、なるべく気力が下がらないように気を付けている。具体的には、「目を覚ましてからの初動で、やるべきことをする。朝食よりも何よりも先にする」などである。やるべきことを少しでもできれば、わずかでも自己肯定感が得られ、それが次の努力につながる。



夢を見た。内容は覚えていないが、とにかく、自分が高齢になってしまったことを強く意識し、何もかも手遅れだと感じるようなものだった。

夢の中は無防備なもので、目が覚めたときにはもう何もする気が起きていなかった。実際、ほぼ何もできなかった。

その前日は気力を落とさずに頑張れた日だったので、落差にもうんざりした。


クソみたいな人生で、クソみたいな精神状態の中で足掻いているのに、自分でもさらに状態を悪くしていたのでは世話がない。

自分で夢を見て自分の状態を悪くしている。なんというか、無駄の多い身体だ。そういえば、この身体は結構そんなことが多い。他人様の実情はわからないし、そんなことを思っても仕方ないが、人より損している感を抱いてしまう。


クソ。




2019年11月20日水曜日

二重まぶた信仰の話





掲示板などを見ていると、二重まぶたを異常に褒め、一重をひたすら貶すような意見を結構見かける。

自分は一重だが、特にそれで自分の顔が不細工になっていると思ったことはない。というか、一時的に二重まぶたにすることはできるが、正直その顔は濃すぎて好きではない。

華やかさで言えばもちろん二重が圧倒的だが、「顔が美しいかどうか」は、目が二重かどうかなんていう些細なことで決まらないと思っている。そんなことより大事なのは、骨格とかパーツ配置とか鼻だろう。二重の大きなお目目をしていても、他が整っていなければ、自分にはそれが美人だとは到底思えない。逆に他が全部同じように整っているのなら、二重と一重は好みの問題だろう。

しかし、一抹の劣等感?でも抱いているのか、一重まぶた貶しを見ると、どうにもイライラする。

本当に美しい顔をした人なら、他人の顔自体を貶すことはあっても、他人の目が一重であることに絞ってわざわざこき下ろすような情熱はないのではないか、と思う。一生懸命ネット上で喚くのは、そこにしか拠り所がないからなのではないか。

だから、一重を極端にこき下ろす人は、要するに「目が二重なことにしか取り柄がない不細工」と「目が二重でさえあれば美人になれたはずだとでも思っている不細工」の二通りしかいないのだと思う。

それはわかっているのだが、なぜかそういう意見を素通りできずに見て、また不細工が吠えている、と思ってしまう。


あるいはイライラしたくて見ているのか?よくわからない。よくわからないが、ああいう言説はとても嫌いだ。



(冒頭画像は、LhcCoutinhoによるPixabayからの画像)


2019年11月19日火曜日

カップ焼きそばの話





ここ数年、カップ焼きそばを食べる機会がずいぶん減った。

ふと店で珍しそうなのが安く売られているのに気付いたので、買ってみた。背脂にんにくチーズ味みたいな商品だ。タレは醤油ベースのようだった。

食べてみると、普通に不味い。途中で捨てはしなかったが、それを考えるくらいにはまずかった。

にんにくとかチーズとかの、どうしたっておいしいはずの食材を使って何をどうしたらこんなに不味くなるんだ?背脂だって別に嫌いではないし。

しかしネット上での評判を調べると、悪くないんだな・・・単に自分の好みに合わなかっただけなのか?


カップ焼きそばは特売くらいでしか買わないが、いつ買っても不味いように思う。メーカーは選んで買っているが、それでもいつも不味いのだ。売れなかったような不味い色物だから特売に出る、というだけの話なんだろう。そんなメカニズムで、日々、「カップ焼きそばは遍く不味い」というイメージが強くなっている。

カップ焼きそばはカロリーが高いので、不味いものを食べるために「お金→カロリー」変換をしてしまった場合の残念感は大きい。

いいかげん特売カップ焼きそばを買うのをやめるべき時が来ているのだろう。




(冒頭画像は、Ulrich DreglerによるPixabayからの画像)


2019年11月18日月曜日

以前いた街が懐かしかった話





用があって数年前まで住んでいた街を訪れた。今住んでいる場所から自転車で行ける程度の距離だが、同じ街の端から端までくらい離れているので、なかなか行く機会はなかった。

せっかくだから住んでいた時によく使っていた道などを通っていると、妙にうれしいような楽しいような気持ちになった。不思議だった。ここに住んでいた頃だってあれもダメこれもダメで状態はろくでもなくて、大して良いこともなかったはずなのに、と思った。

今と何が違うのか、と思えば、希望の量が違ったのだと気づいた。そこにいた頃も行き詰まってはいたが、まだ多少元気だったのだ。
それから今日まで数年間かけて、結果も出ずに努力が挫け続けて年齢だけ重ねた。それにより、単純に希望の残量が減ったのだ。


ふと思った。
年を経るにつれて希望が減るのなら、これからもなけなしの努力が折れ続けるのなら、数年後はどうだろう。例えばどこかに引っ越してから数年後に今いる場所を訪ねたとき、やっぱり「あの頃はまだ希望があったよな」と思うのだろうか。クソつまらない今の生活でさえ、きれいで愛しく懐かしく思えるのだろうか。

そんな風に考えると、夢があるな。クソみたいな夢がある。



(冒頭画像は、songping wangによるPixabayからの画像)


2019年11月17日日曜日

怖い話の隣人の大家の話





怖い話は結構好きで、読み漁っていた時期がある。

ネットでよく見る怖い話で、こんなのがある。

大要、

・女子大生がマンションで一人暮らし
・部屋の壁に穴が開いていることに気づく
・穴を覗くといつ見ても赤いので、隣の部屋の様子が気になる
・大家に聞いてみる
女子大生「私の隣の部屋にはどういう人が住んでいるのですか?」
大家「あなたの隣の部屋には病気で目が赤い人が住んでいますよ。」


というものだ。

とりあえず思うのは、こうだ。
「どんな人?」と聞かれて「目が赤い人」とか言うか?

「どういう人?」と聞かれれば、普通、「30代くらいのサラリーマン」とか「一人暮らしのおばあさん」とか「子連れのお母さん」とかそういうことを答えるのではないかと思う。大家は目の色で住人を識別しているのか?おかしいだろ。目が赤いから何だって言うんだよ。

物語をコンパクトに進めるために多少非現実的な動きをさせられる登場人物、というのはよく出会うものではあるが、それはそれとしてやっぱりどうにも可笑しい。「目が赤い人が住んでいますよ(ドヤァァァァァァ)」という感じに見えて、どうしても笑ってしまう。


そんなわけで、あの怖い話はすごく好きだ。思い出すだけで笑ってしまうくらい好きだ。ささやかではあるが、それはある種の財産と言ってもよいものだ。









2019年11月16日土曜日

オリーブオイルと白ワインのにんにく醤油ラーメンの話





にんにくが好きだ。特に、油で炒めて香りを出したにんにくが好きだ。

普段作る醤油ラーメンは、鍋一つで、

①刻みにんにくをキャノーラ油で香ばしくなるまで炒める
②鶏肉などの肉を入れて炒める
③肉に火が通ったら野菜(もやし、人参その他好きなもの)を入れて軽く炒める
④火を止めて、粉末鶏ガラ、砂糖、日本酒、しょうゆを入れ、具材が十分浸るくらいに水を入れ、中火にかける
⑤沸騰したら、中華麺を加えてほぐす
⑥再度沸騰したら上から卵を割り入れてふたをし、黄身は生のまま、白身にやや火が通ったくらいで、完成


といった流れで作る。別にどこで見たレシピでもない、勝手に自分で気に入っている作り方だ。

とにかく「いったん鍋から降ろす」とか、「これとは別に麺を茹でておき・・・」とかいうめんどくさい工程が大嫌いなので、かなりガサツな出来になるが、味的には気に入っている。生焼けにんにくのヒステリックな味が目障りで失敗したこともあるが、しっかり揚げるとおいしくなった。


今回は在庫のキャノーラ油の残りがほとんどなかったので、炒め油はオリーブオイルにした。また、冷蔵庫に置いていた白ワインの残りを処分したかったし、自分の味付けなら多少の酸味は合いそうに思ったので、日本酒の代わりにワインを使うことにした。あとは鷹の爪をちぎって入れた。


やってみたら、中華っぽさはあまりなかったが、予想通りややさっぱりめの味でおいしくなった。満足。

最近、白ワインを料理に使うのが結構楽しくなってきた。


(冒頭画像は、Kasjan FarbiszによるPixabayからの画像)


2019年11月15日金曜日

恥に包まれる話



近く、親族で集まる機会がありそうだ。


何をやっても結果が出ず、振り返ってみれば無駄な努力ばかりを何年も何年も何年も続けて、すっかり社会不適合者になってしまった。そんな風になってしまうと、親族や古い知人などにあまり会いたくなくなってくる。「まともに」生きられている人たちに会うのはむしろ苦痛だ。

報告したいようなことも別にない上に、逆に非難されるのは普通に辛い。言い返せることなどない。運だろうと才能だろうと執念だろうと、とにかく結果を出すことが全てだ。現に結果を出せていないのだから、恥じるしかない。何をしても何も結果が出ないままに年だけ重ねてしまった人間の成れの果て、それが自分だ。まともな社会人になり損なってしまった自分を日々恥じながら生きている。

恥の気持ちは結構重い。そもそも生きているだけで恥ずかしいので、旧知・初対面問わず、「まともな人」と会うのに積極的でなくなる。

人と会うことが減ると、自分の状態を世の中に合わせて修正する機会が減る。おそらく今、自分ではわからなくても、何かしら視野狭窄に陥っているのだろうと思う。

しかし、そこから脱する手段も見つからない。そもそも人と会うこと自体を避けがちになるし、誰と会っても何をしていても、「人生に失敗した自分が恥ずかしい」「手ひどく馬鹿にされたくない」という、恥と恐怖感で頭がいっぱいだ。

おそらく、年齢が若いうちに、何かを目指すのをやめてとにかく普通の生活、普通の人生をまず得るべきだったのだと思う。若ければ許されること、若ければ恥じなくてもよいことは、きっと少なくなかったはずだ。

そんなことを言っても、今はもう遅い。かといって、明るく開き直るメンタルもなさそうだ。

だから、この閉塞感と付き合いながら、できる努力をするしかない。クソ。



親族の集まりに行くべきだと考えたのも、行く、と答えたのも自分だ。だから、ちゃんと用意して行くつもりだ。でもそれはそれとして辛いし、そのことで精神を削られるので、本来やるべきことに取り掛かる気力が出ない。


そんなわけで、またここに吐き出している。



2019年11月14日木曜日

リモートデスクトップの話





ちょっとした作業でリモートデスクトップを使っている。

これがまた、遅すぎてヤバい。時間帯によって遅かったり遅くなかったりするので、同時利用者が多いかどうかとかそういう事情で遅くなっているんだろう。

具体的には、例えばマウスクリックしてからその入力がホストの画面に反映されるまでに、20秒くらいかかる。

発注側の用意するリモート環境なのでこちらとしてはそれを使うしかないが、こんな遅さでは使えたものではないので、時間帯を選んで使っている。


と思う。
クソ遅い時間帯にホストの利用状況を見てみると、それなりの人数がこのリモートにアクセスしているようだ。
つまり、この遅さに耐えて利用している人がたくさんいる、ということなのか?
人はそこまで気が長くいられるものなのか?


あるいは単に何らかの裏技があるのかもしれない。


(冒頭画像は、かねのり 三浦によるPixabayからの画像)

2019年11月13日水曜日

クラクションの話




クラクションがものすごく嫌いだ。昔から嫌いだ。とりわけ長押しが嫌いだ。

確かに変な割り込み方をされたりしたら怒りを示したくなる気持ちはわかるが、だからといってもうすでに終了してしまった割込みに対してクラクションを鳴らし続けて一体何の役に立つのだろうか?運転手の満足感と引き換えにクソうるさい大音響で周りの人間を苦しめる。

安全確保のために必要なのであればいくらでも鳴らせばよいが、そうは思えない状況で鳴らしているドライバーがあまりに多すぎるように感じる。地域性もあるのかもしれない。

正直、ブーブーブーブー馬鹿みたいに無駄にクラクションを鳴らしている車を見ると、できれば今すぐに自分が見ている前で自損事故で死んでほしい、と思ってしまうくらいイライラする。

もはや無駄クラクションに出会うことが常態化してしまっている。そのため、クラクションを聞くと反射的に「あぁ?死ねよ。」と思ってから振り返り、なるほどこの状況なら鳴らすのも無理はない、死ねとか思ってすみません、と思ったりすることもある。

もう少し無駄鳴らしが減ってくれればと思うが、まあここまで苛烈に嫌っている人間も少ないのだろうから、きっとこのままなのだろう。

というか自分でも、ここまで嫌うことないだろう、と思う。


よくわからないくらいクラクションが嫌いだ。






2019年11月12日火曜日

本当は黄色い月明りの話



ふと気になったことは割とよく調べる方だ。

とはいえ、思い立つたびにいちいち図書館に行くほどは暇ではないし、近くにある図書館は小さいので、調べる手段はもっぱらインターネットだ。

ネットは便利だが、要領を得ない情報しか得られない場合も多い。

先日、「空の月は黄色く見えるのに、手元に落ちた月明りが青いのはなぜだろう?」と気になり、調べてみた。

どうやら人間の目は、光量が少ない状況では、視細胞の都合により、波長の短い青色の光を強く感じ、波長が長い赤色側の光は弱く感じる、という仕組みになっているらしい。(これはプルキンエ効果と呼ばれているそうだ。)

ふむふむなるほど。ん?じゃあ月明りは本当は何色なんだ?という疑問が生じた。しかし、意外とそれについてはっきり書いているものに辿り着かない。

自分は、月明りの本当の色が知りたい。なら、調べるべきなのは、要するに「月明りに含まれる光の波長ごとの強さ」を示した情報だ。

そこで、「月明り 色 波長」などで検索する。
いくつか検索結果を流し見ていると、月光の色温度について書かれたサイトに、まさに欲しかったものがあった。

横軸が波長の長さ、縦軸が光の強さで作られたグラフだ。
グラフでは、太陽の光と月の光を並べて表示しており、むしろ月の光の方が太陽よりも黄色い(長波長優位)くらいだった。

「月を直接見れば目に入る光量は多いから実際の波長通りに白~黄色がかって見え、手元に落ちた月明りは光量が少ないから視細胞の都合で青く見える」

よし。欲しかった解答がきれいに見つかった。


ちょっとした疑問について調べてみても迷宮入りすることが多いネットで、疑問に対する結論がきれいに見つかるのはとても気持ちいい。たとえ一文の得にもならなくても。


(冒頭画像は、Hermann SchmiderによるPixabayからの画像)


2019年11月11日月曜日

朝顔に見る東京オリンピック暑さ対策


1 2020年東京オリンピックは、朝顔が熱い!


とりあえず、記事タイトルに興味を持って閲覧してくださった方は、まずは記事末尾段落をご覧いただきたい。


2 なぜ朝顔が熱いのか!?


来年に迫っている東京オリンピックの暑さ対策


オリンピックの暑さ対策は、マラソンがお勧めだ。もしも朝顔が傘を差せば、東京都はその費用をトライアスロンに回すこともいとわないだろう。実際、十分にクーラーが普及していなかった50年前の東京オリンピックでは政府もミスとミストの区別もついていなかった。さらにもしも予算が雪崩れていたら、人工雪も設置できない状態だっただろう。観客は日傘をさして打ち水を浴びるしかなかったのである。この点で、暑さ対策にあたって予算は極めて重要だ。

熱中症のボランティア


しかし、その代わりにボランティアの汗を大型扇風機で気化させて気温を下げられる可能性もある。この点ではボランティアに期待させる部分が大きい。
また、ボランティアを札幌に行かせ、東京まで雪を運ばせる手もある。そのための移動時間については、やはりサマータイムを導入すべきだろう。それは政府が率先して先導すべきだ。


3 開催地は変更できないの?


東京オリンピックを札幌で行うという論理矛盾を抱えている。それは、選手による一日30時間のトレーニング、という矛盾に似ている。

ところで、トライアスロンの開催地の海としては、遠アサガオ勧めである。また、東ア・サガ・オーナメント株式会社の費用で開催地を変えることも考えられる。

よって、東京都は今後このような対応も選択肢に入れることだろう。


4 どうしてアスファルトは朝顔よりも暑いの?それは東京だけ?札幌では涼しいの?


しかし、そもそもマラソンコースの道路はアスファルトではなく帽子でできているべきもので、そうであれば朝顔や打ち水など必要ないのである。この点から、アスファルト道路が札幌よりも暑いのは当たり前なのだ。

無能な帽子と暑い打ち水で、観客の朝顔は花も咲かせないだろう。すなわち、日が昇る昼間にはすっかりしおれるのである。
人もまた然りだ。熱中症の暑さで打線を組めば、その費用は東京都を上回り、無能な朝顔が本来のパフォーマンスを発揮することはできないだろう。それは政府の人間だろうと外国人観客であろうと同じ事だ。


5 東京都の見解は?争点は?


サマータイム用の帽子を使う手もあろうが、なんと言っても、朝顔に必要なのは、雪だ。それも、人工雪だ。

しかし、オリンピックは時間厳守であるから、朝に弱い選手、アサガオきれない選手には厳しいものがある。寝ている間に熱中症になれば悲劇だ。しかも、必ずしも選手村の寝床に傘があるとは限らないし、ベランダで朝顔を育てているとも限らない。だから、マラソン選手で打線を組むことはできないのである。


6 今後の見通し!!!!!


そこで、2020年東京オリンピックは、朝顔の年になりそうだ。これからどんな暑さ対策が出てくるのか目が離せない。




(注意!!!!!)
別でやっているブログの検索流入が少なすぎてすっかり困ってしまったので、試しに実験をしてみようと思う。検索に引っ掛かりそうな言葉を探して、それを全部盛りしただけ、というお粗末なものだ。だから、上記の文章は、できれば読まないでいただきたいブログタイトルも見たうえでせっかくお越しいただいので、もしもよろしければ他の記事をお楽しみいただけたらと思う。
なお、上の文章は、一応日本語としての形式だけは崩さずに、全く意味のない文章を書いた。駄文とかそういうレベルではない。意味が、ないのだ。まさかこんな文に何らかの意味があると誤解する人はいないと思うが、何も意味がないことを明言しておく。




2019年11月10日日曜日

踏切の話




踏切が嫌いだ。

呪詛のような記事ばかり書いていて言うのも何だが、普段自分はあまり怒らないほうだ。

しかし、踏切で引っかかると途端に怒りに包まれる。

最高にイラつくのは、「遮断機を下ろしたくせになかなか電車が来ず、その間に反対向きの電車まで増える」という現象だ。これがコンボで続くと開かずの踏切になるわけだが、幸い自分の行動範囲では開かずの踏切はない。しかし、引っかからずに踏切をやり過ごせることはあまり多くない。

遮断機下ろすならさっさと通れよ。さっさと通らないならとりあえず遮断機上げろよ。モタモタモタモタモタモタモタモタいい加減にしてくれ。

なぜこんなことでこんなにイラつくのかわからないが、人にはきっと人ごとに「固有怒りトリガー」のようなものがあるのだろう。


しばらく前に、開かずの踏切?でブチ切れたオッサンが遮断機をノコギリで切って車で通過した、というニュースを見た。違法だし迷惑だし危ないからしてはいけないしそんなことは絶対にしないが、それでも正直、胸のすく思いがした。


何が何だかわからないが、とにかく踏切は嫌いだ。


(冒頭画像は、yogi0_0によるPixabayからの画像)



2019年11月9日土曜日

大覚寺風車の話


京都で思い出した。


京都の大覚寺では、境内に大量の風車を並べる奉納イベント?があるらしく、それがまた画像で見るとホラーというかファンタジーというか、とにかく圧巻だった。

数年前、たまたま京都に行く機会があったので、街中で自転車を借りて、1時間半かけて大覚寺まで行った。寺の公式ウェブサイトでは風車の日程と風車参加募集ページなどがあったので、それに合わせて京都を訪れた。

行ってみたら、どうもそれっぽいのがない。

受付で聞いてみると、「今年はない」とのこと。

クソ。音が鳴りそうなくらいがっかりした。

まあせっかく1時間半かけて行ったから、せっかくだからお金を払って拝観した。

庭園?を歩いていると、転んで靴とタブレットPCが泥まみれになった。何やってもクソ。故障しなかったのは不幸中の幸いだった。

仕方ないのでもうあきらめて帰ることにした。

嵐山が近くなので、せっかくなので竹林の小径に寄ってみた。

かし、花灯路の時期以外はまともに街灯もないようだった。普通に暗闇の小径だった。

することもなくなり、とぼとぼと街中に戻った。

そんな思い出。





ふと今検索してみたら、風車は毎年のイベントではなく、2012年にしかやっていなかったのか?じゃあ自分は何で日程を確認して訪れたのか?あれは夢か?何かを誤解したのか?何を信じたのか?何が何だってんだ?


でも、google検索で出てきたあの風車の画像は、久しぶりに見てもやっぱりきれいだった。






2019年11月8日金曜日

秋の衣笠の話





学生時代、そこそこ長く京都にいた。



ある秋、龍安寺の方を訪れた

他も回っていたので割と時間が遅くなってしまい、日暮れ近くなっていた

龍安寺は京都盆地の北西の端あたりにある寺だ

京都は中心部こそ街中だが、盆地の縁に近くなると、山里じみた景色になっていく

夕暮れ時、11月の肌寒い風に吹かれつつ参道を行く

もう一枚カイロを貼っておけばよかった

つと道を曲がり、西に向かう

顔を上げ、思わず目を見開く

橙色の夕焼け空と、葉が落ちて痩せた木々のシルエットが広がる

秋の夕暮れ、湿った土と枯れ木のにおい

きれいな景色なのかはわからないけれど、覚えておこう、と思った



今よりずっと未来に希望があったころの話。

今いる場所は、そもそも近くに山などないし、あったとしてもビルで見えないし、木といえば街路樹があるくらいだ。
あんな風に秋を味わうことはできない。

今年も遠出するような余裕はできなかったので、残念だけれど仕方ない。



(冒頭画像は、S. Hermann & F. RichterによるPixabayからの画像)



2019年11月7日木曜日

うろ覚えミスミソウの落ちサビの話






押切蓮介の漫画「ミスミソウ」が結構好きだ。

読んだのはもうずっと前なので実は細かいストーリーは忘れてしまっているのだが、内容は、

・クラスメイトにいじめられて家族を放火で殺された主人公少女がついに反撃に回っていじめっ子たちを物理でどんどん殺していく

・主人公には仲の良い少年がいて頼りにしていたが、ちょっとおかしい少年(主人公の家族が放火で焼かれた時の写真を撮って喜んでいるような種類のおかしい少年)であることが主人公にも知れて関係が悪化した
・少年はDV少年で、執拗に主人公と一緒にいようとしつつ、暴力も振るう。「どうしてわかってくれないんだ!?」とかそういう系のDV少年だったと思う

という感じだった。

ラストバトルでは雪の林でクラスメイト達を殺した満身創痍の主人公のもとにラスボスDV少年が現れ、例のごとく主人公を暴力で支配しようとする。


その後のシーンが凄く良くて、

雪の降りしきる静かな林の中
少年はとても澄んだ目、きれいな顔で、ボロボロの主人公に語りかける
イカレた都合のいいことを穏やかに語りながら歩み寄る
一転、主人公が雪に埋まったボウガンを拾って少年の目を射抜く

そんな感じのシーン。


一瞬静かになって、そこから最後まで疾走する感じがとても良くて、好きだ。


すぐには例を思い出せないが、ああいうシーンは創作物の中で結構見かけるように思う。音楽で言うと、「落ちサビ」に当たる部分だ。

物語の世界で何と呼ぶのかはわからないが、何かしら名前があるのではないか、という気もする。


(冒頭画像は、Мирослав ЛисанецによるPixabayからの画像)



2019年11月6日水曜日

ごま油の話


自宅では、調理用の油として、キャノーラ油、エクストラバージンオリーブオイル、ごま油を使っている。

とりあえず、ごま油が一番価格が高いので、何でもごま油でやればおいしくなるんだろ、と思っていた時期があった。

しかし、例えばニンニクチャーハンとかの炒め油にごま油を使うと、何かおいしくないような変な感じだった。

冷静に考えてみれば、ごま油のあの匂い、あれは(油成分以外の)いわば混ざりもののにおいだ。それをしっかり加熱してしまうと、その成分が焦げるなりなんなりして本来のごま油の香ばしい香りが消えて苦みなりなんなりが出てくるのでは?と気づいた。

そこで、ごま油は調理の最後の仕上げにだけ入れ、直火でカンカンに熱したりはしないようにしたら、普通においしくなった。ネット上のいろんなレシピなんかでも、よく見ればごま油はたいてい最後に入れられているようだった。

かくしてやっとごま油をきちんと使えるようになった。ちなみに最近気に入っている使い方は、焼きそばの仕上げだ。最後にフライパンに回し入れてその上から中濃ソースをかけるとおいしい。



2019年11月5日火曜日

交差道路の話




車は持っていないので、移動手段はもっぱら自転車か徒歩である。

住んでいる場所が街中なこともあり、見通しの悪い十字路等の交差道路が多い。

そういうところで交差点に進入するときは一時停止するなり減速するなりして交差道路の安全を確認してから行く。自分が一時停止側なら一時停止するのはもちろんのこと、優先側であっても減速して安全確認する。一時停止標識を無視して突っ込んでくるクソドライバーなんていくらでもいるからだ。

しかし、意外とこういう意識の人は少ないようで、減速もせずに交差点に進入するような自転車も少なくない。

ああいう人たちは、交差道路から出てきた車に轢かれてもいいんだろうか?轢き殺された後で相手方の保険会社から賠償金をもらえればそれで満足なんだろうか?
謎だ。


自分以外の歩行者、自転車、バイク、自動車すべてクソだと思って道路を通行するのが良いと思う。
もちろん多くの人たちは交通ルールを守っている人たちだと思う。でも、守らない人も絶対数で言えば少なくないし、たまたま「当たり」を引けば、見事轢かれてバッドエンドである。


自分がルールを守るのはもちろんのこと、自分以外はルールを守らないクソだ(クソかもしれない)、と想定することがとても大切なことだと思う。当たり前のことではあるが。



(冒頭画像は、Free-PhotosによるPixabayからの画像)

2019年11月4日月曜日

お気楽な料理の話




何をやってもうまくいかない自分の生活において、まだしもうまくいくのが、料理だ。

ここ数年、生活上たいして面白いこともないし、挑戦していることも何年も結果が出なくて正直毎日クソつまらないので、食べるくらいしか気持ちいいことがない。

しかし無職の自分には、外でまともなものを食べるようなお金はないので、自分で作ることになる。

食べたこともない外国の料理を作るのが好きで、海南鶏飯だとか、ラタトゥイユだとか、ムケッカだとか、そういうものを作ったりする。もちろん野菜炒めとかチャーハンとかうどんとかの普通のものも作る。

料理は良い。
とりあえずレシピを見て作ってみて、おいしかったところ、おいしくなかったところを自分の舌で評価して、その原因として考えられるものを経験・化学等の視点から考えて仮説を立て、次に改善してみる。見事おいしくなれば大当たり。外れれば、また別の仮説を立てて改善する。あまり失敗を繰り返すと嫌になるが、幸運なことに、たいていは最初からおいしくなるし、失敗しても2回目以降はおいしくできるのが普通だ。(もちろん何度やってもうまくいかないものもあるが、そういうものはそもそも作るのをやめるだけである。)

自炊料理の気楽なところは、「誰様とコミュニケーションをとる必要もなく理科の実験に近いこと」「料理を食べて結果を評価するのが自分自身であること」の2点だ。

何もできない自分の生活の中で、料理は、数少ない救いだ。やろうとして工夫して実際それが功を奏して結果を出せるときの「よし!」という気持ちは、とても大切にしている。


何でも、自給自足レベルのそれなりの品質のものを作って満足して生きていけるならそれなりに幸せだったのかもしれないようにも思う。



自分は生まれるのが1000年遅かったのか。




(冒頭画像は、RitaEによるPixabayからの画像)

2019年11月3日日曜日

頑張る気力の話


何をやってもうまくいかず、高齢無職となってしまったが、それでも一応生きているので、いまだに挑戦していることがある。

しかしご多分に漏れず、それもなかなかうまくいかない。客観的に相当程度の成功率が見込める状況であるにもかかわらず、見事にハズレばかり引いている。あるいはこれが天命か?そういう天意か?と思うこともある。

また、仮に多少うまくいったところで、モノになるには何年もかかるジャンルなので、年齢的に、こんなの頑張る意味があるのか?という疑念は拭えない。

やっても意味ないのでは?という疑念は恐ろしいもので、見事にやる気を削がれる。

やって結果が出ることがわかってて頑張るのは別にすごくない、結果が出ないかもしれないのに頑張れるからすごいんだ、というような有名人の言葉を見たことがある。

確かにそうだ!頑張ろう!と思うときもある。
でも所詮すでに十分結果出してる人の言葉じゃん、何やっても結果出ない奴はどうすればいいのか?と思うときもある。

そんな気分をふらふらしているから、気力が出たり出なかったりする。

「頑張るのにやる気は要らない、とにかく始めればよい。そのうちやる気も出てくる」というのは経験的にわかっている。

しかし、では「とりあえず始める気力」はどこから来るのか?本を見ても文章が頭に入ってこないのはどうすればよいのか?


わからない。だから今、耐え切れずにこんなブログを書き始めた。


2019年11月2日土曜日

bloggerでの専門ブログの話




難関国家資格と呼ばれるものを一つ持っているが、全然収入につなげることができなかった。でもせっかく勉強したことをただ腐らせるのももったいないので、他所で専門的な解説ブログを始めてみた。すでに開始半年くらい経っている。

しかし、PV数がまともに伸びない。具体的には、1日1桁くらいが普通だ。3桁行った日もあったが、続かなかった。

内容が専門的でなかなか記事が書けず、1~2週間に1回くらいしか更新していないのが原因かもしれない。使っているブログサービスが集客困難性に定評のあるbloggerなことが良くないのかもしれない。ちなみにアドセンスの申し込みもしてみたが、申し込みからすでに1か月以上経過しているものの、承認不承認の結果すら来ない。

何が何だっていうんだ、クソ。

V数に一喜一憂してメンタル消耗するのも馬鹿馬鹿しいから、しばらくあのブログは放っておこうかなとも思う。

誰の何の参考にもならなそうな記事だが、まあそんなbloggerユーザーもいる、という話で。


(冒頭画像は、Marion WunderによるPixabayからの画像)




2019年11月1日金曜日

ブログを始める


正直何をやってもうまくいかない。


学歴は悪くはない、難関資格と呼ばれるものも持っている、重い持病などはない。

でも、仕事はうまくいかなかった。今はほとんど無収入の状態で、特定の人に助けられて生きているだけ。

それでも、一応生きているので、何かをやってみている。


人の役に立つことが書けるかわからないが、とりあえず何か書いてみる。