2020年1月12日日曜日
蕁麻疹の話
しばらく書くことがないかと思ったら、来た。
シーフードスパゲティを作って食べたら、直後からだんだん身体がかゆくなってきて、数時間後には、体中びっしり蕁麻疹となった。かゆくてやってられない。
甲殻類アレルギーか何かなのだろう。と言うか小麦アレルギーの場合は本格的に困るから、とりあえず少しはましなものであってほしい。
間の悪いことに、ちょうど大事な時期なので病院に行く時間も惜しい。行こうか行くまいか・・・。
まあーーーーしかし、何から何までクソなタイミングでクソなことばかり起こる人生だわ。クソ。この人生を邪魔するために、何か大いなる力でも働いているのか?けったくそ悪い。クソが。
ただ、落ち着け。この人生は、今さら何がどうなったってもうどうせクソ人生なことは変わらない。これまでもこれからもクソだ。
それでも、マシなクソ人生にするために、やるべきこともやることも変わらない。
迷う必要はない。
クソ。
2019年11月21日木曜日
夢に苛まれた話
今さら何をやってももう遅いのでは?意味がないのでは?という気持ちが普段から強い。
そのため、やりたいことに対する努力も、できるときとできないときがある。
とはいえ、四の五の言っているわけにもいかないので、何とかして気力を上げ、なるべく気力が下がらないように気を付けている。具体的には、「目を覚ましてからの初動で、やるべきことをする。朝食よりも何よりも先にする」などである。やるべきことを少しでもできれば、わずかでも自己肯定感が得られ、それが次の努力につながる。
夢を見た。内容は覚えていないが、とにかく、自分が高齢になってしまったことを強く意識し、何もかも手遅れだと感じるようなものだった。
夢の中は無防備なもので、目が覚めたときにはもう何もする気が起きていなかった。実際、ほぼ何もできなかった。
その前日は気力を落とさずに頑張れた日だったので、落差にもうんざりした。
クソみたいな人生で、クソみたいな精神状態の中で足掻いているのに、自分でもさらに状態を悪くしていたのでは世話がない。
自分で夢を見て自分の状態を悪くしている。なんというか、無駄の多い身体だ。そういえば、この身体は結構そんなことが多い。他人様の実情はわからないし、そんなことを思っても仕方ないが、人より損している感を抱いてしまう。
クソ。
2019年11月19日火曜日
カップ焼きそばの話
ここ数年、カップ焼きそばを食べる機会がずいぶん減った。
ふと店で珍しそうなのが安く売られているのに気付いたので、買ってみた。背脂にんにくチーズ味みたいな商品だ。タレは醤油ベースのようだった。
食べてみると、普通に不味い。途中で捨てはしなかったが、それを考えるくらいにはまずかった。
にんにくとかチーズとかの、どうしたっておいしいはずの食材を使って何をどうしたらこんなに不味くなるんだ?背脂だって別に嫌いではないし。
しかしネット上での評判を調べると、悪くないんだな・・・単に自分の好みに合わなかっただけなのか?
カップ焼きそばは特売くらいでしか買わないが、いつ買っても不味いように思う。メーカーは選んで買っているが、それでもいつも不味いのだ。売れなかったような不味い色物だから特売に出る、というだけの話なんだろう。そんなメカニズムで、日々、「カップ焼きそばは遍く不味い」というイメージが強くなっている。
カップ焼きそばはカロリーが高いので、不味いものを食べるために「お金→カロリー」変換をしてしまった場合の残念感は大きい。
いいかげん特売カップ焼きそばを買うのをやめるべき時が来ているのだろう。
(冒頭画像は、Ulrich DreglerによるPixabayからの画像)
2019年11月18日月曜日
以前いた街が懐かしかった話
用があって数年前まで住んでいた街を訪れた。今住んでいる場所から自転車で行ける程度の距離だが、同じ街の端から端までくらい離れているので、なかなか行く機会はなかった。
せっかくだから住んでいた時によく使っていた道などを通っていると、妙にうれしいような楽しいような気持ちになった。不思議だった。ここに住んでいた頃だってあれもダメこれもダメで状態はろくでもなくて、大して良いこともなかったはずなのに、と思った。
今と何が違うのか、と思えば、希望の量が違ったのだと気づいた。そこにいた頃も行き詰まってはいたが、まだ多少元気だったのだ。
それから今日まで数年間かけて、結果も出ずに努力が挫け続けて年齢だけ重ねた。それにより、単純に希望の残量が減ったのだ。
ふと思った。
年を経るにつれて希望が減るのなら、これからもなけなしの努力が折れ続けるのなら、数年後はどうだろう。例えばどこかに引っ越してから数年後に今いる場所を訪ねたとき、やっぱり「あの頃はまだ希望があったよな」と思うのだろうか。クソつまらない今の生活でさえ、きれいで愛しく懐かしく思えるのだろうか。
そんな風に考えると、夢があるな。クソみたいな夢がある。
(冒頭画像は、songping wangによるPixabayからの画像)
2019年11月15日金曜日
恥に包まれる話
近く、親族で集まる機会がありそうだ。
何をやっても結果が出ず、振り返ってみれば無駄な努力ばかりを何年も何年も何年も続けて、すっかり社会不適合者になってしまった。そんな風になってしまうと、親族や古い知人などにあまり会いたくなくなってくる。「まともに」生きられている人たちに会うのはむしろ苦痛だ。
報告したいようなことも別にない上に、逆に非難されるのは普通に辛い。言い返せることなどない。運だろうと才能だろうと執念だろうと、とにかく結果を出すことが全てだ。現に結果を出せていないのだから、恥じるしかない。何をしても何も結果が出ないままに年だけ重ねてしまった人間の成れの果て、それが自分だ。まともな社会人になり損なってしまった自分を日々恥じながら生きている。
恥の気持ちは結構重い。そもそも生きているだけで恥ずかしいので、旧知・初対面問わず、「まともな人」と会うのに積極的でなくなる。
人と会うことが減ると、自分の状態を世の中に合わせて修正する機会が減る。おそらく今、自分ではわからなくても、何かしら視野狭窄に陥っているのだろうと思う。
しかし、そこから脱する手段も見つからない。そもそも人と会うこと自体を避けがちになるし、誰と会っても何をしていても、「人生に失敗した自分が恥ずかしい」「手ひどく馬鹿にされたくない」という、恥と恐怖感で頭がいっぱいだ。
おそらく、年齢が若いうちに、何かを目指すのをやめてとにかく普通の生活、普通の人生をまず得るべきだったのだと思う。若ければ許されること、若ければ恥じなくてもよいことは、きっと少なくなかったはずだ。
そんなことを言っても、今はもう遅い。かといって、明るく開き直るメンタルもなさそうだ。
だから、この閉塞感と付き合いながら、できる努力をするしかない。クソ。
親族の集まりに行くべきだと考えたのも、行く、と答えたのも自分だ。だから、ちゃんと用意して行くつもりだ。でもそれはそれとして辛いし、そのことで精神を削られるので、本来やるべきことに取り掛かる気力が出ない。
そんなわけで、またここに吐き出している。
2019年11月9日土曜日
大覚寺風車の話
京都で思い出した。
京都の大覚寺では、境内に大量の風車を並べる奉納イベント?があるらしく、それがまた画像で見るとホラーというかファンタジーというか、とにかく圧巻だった。
数年前、たまたま京都に行く機会があったので、街中で自転車を借りて、1時間半かけて大覚寺まで行った。寺の公式ウェブサイトでは風車の日程と風車参加募集ページなどがあったので、それに合わせて京都を訪れた。
行ってみたら、どうもそれっぽいのがない。
受付で聞いてみると、「今年はない」とのこと。
クソ。音が鳴りそうなくらいがっかりした。
まあせっかく1時間半かけて行ったから、せっかくだからお金を払って拝観した。
庭園?を歩いていると、転んで靴とタブレットPCが泥まみれになった。何やってもクソ。故障しなかったのは不幸中の幸いだった。
仕方ないのでもうあきらめて帰ることにした。
嵐山が近くなので、せっかくなので竹林の小径に寄ってみた。
しかし、花灯路の時期以外はまともに街灯もないようだった。普通に暗闇の小径だった。
することもなくなり、とぼとぼと街中に戻った。
そんな思い出。
ふと今検索してみたら、風車は毎年のイベントではなく、2012年にしかやっていなかったのか?じゃあ自分は何で日程を確認して訪れたのか?あれは夢か?何かを誤解したのか?何を信じたのか?何が何だってんだ?
でも、google検索で出てきたあの風車の画像は、久しぶりに見てもやっぱりきれいだった。
2019年11月3日日曜日
頑張る気力の話
何をやってもうまくいかず、高齢無職となってしまったが、それでも一応生きているので、いまだに挑戦していることがある。
しかしご多分に漏れず、それもなかなかうまくいかない。客観的に相当程度の成功率が見込める状況であるにもかかわらず、見事にハズレばかり引いている。あるいはこれが天命か?そういう天意か?と思うこともある。
また、仮に多少うまくいったところで、モノになるには何年もかかるジャンルなので、年齢的に、こんなの頑張る意味があるのか?という疑念は拭えない。
やっても意味ないのでは?という疑念は恐ろしいもので、見事にやる気を削がれる。
やって結果が出ることがわかってて頑張るのは別にすごくない、結果が出ないかもしれないのに頑張れるからすごいんだ、というような有名人の言葉を見たことがある。
確かにそうだ!頑張ろう!と思うときもある。
でも所詮すでに十分結果出してる人の言葉じゃん、何やっても結果出ない奴はどうすればいいのか?と思うときもある。
そんな気分をふらふらしているから、気力が出たり出なかったりする。
「頑張るのにやる気は要らない、とにかく始めればよい。そのうちやる気も出てくる」というのは経験的にわかっている。
しかし、では「とりあえず始める気力」はどこから来るのか?本を見ても文章が頭に入ってこないのはどうすればよいのか?
わからない。だから今、耐え切れずにこんなブログを書き始めた。
2019年11月2日土曜日
bloggerでの専門ブログの話
難関国家資格と呼ばれるものを一つ持っているが、全然収入につなげることができなかった。でもせっかく勉強したことをただ腐らせるのももったいないので、他所で専門的な解説ブログを始めてみた。すでに開始半年くらい経っている。
しかし、PV数がまともに伸びない。具体的には、1日1桁くらいが普通だ。3桁行った日もあったが、続かなかった。
内容が専門的でなかなか記事が書けず、1~2週間に1回くらいしか更新していないのが原因かもしれない。使っているブログサービスが集客困難性に定評のあるbloggerなことが良くないのかもしれない。ちなみにアドセンスの申し込みもしてみたが、申し込みからすでに1か月以上経過しているものの、承認不承認の結果すら来ない。
何が何だっていうんだ、クソ。
PV数に一喜一憂してメンタル消耗するのも馬鹿馬鹿しいから、しばらくあのブログは放っておこうかなとも思う。
誰の何の参考にもならなそうな記事だが、まあそんなbloggerユーザーもいる、という話で。
(冒頭画像は、Marion WunderによるPixabayからの画像)
登録:
投稿 (Atom)


