2020年9月12日土曜日

「努力教」患者の話



努力至上主義や自己責任論を脳死のように唱える論調がとても嫌いだ。


端的に言えば、自分は失敗者だからだ。努力なんて報われなくて当然の経験ばかりで年だけを経た人間なのだ。自分の学歴や資格と年収を考えると、おそらく国内最高レベルの報われていなさだと思う(病気等で働けない人は除く)。


努力については、


・成功するかどうかはほぼ運で決まるが、努力によっていくらか成功の確率が上がる
・現状を嘆いていてもクソなクソ人生は好転しないので、せめてマシなクソ人生にするために努力する


これ以外には言うことはないはずなのだが、掲示板などを見ていると、努力教患者が努力努力と唱えていることが多く、とても見苦しい。


努力教患者の好む言葉は「結果につながらない無駄な努力は努力とは言えない」というものだ。
この言葉には二つの問題がある。

一つ目。まずとても不思議なのは、「あなたはなぜ正しい努力を見つけることができたのか?」だ。これは運しかない。

「やり方を選べるような環境だった」「やり方を提案してくれる人がいた」「やり方を選ばないといけないと気づくことができた」「やり方を模索し、見事正しい努力方法を見つけられた」など、いろいろ要因はあるのだろうが、結局全て運だろう。
しかし、ラッキーマンからすれば自分の成果だけは努力のおかげでいらっしゃるらしい。


二つ目。
さらにひどいことに、努力教患者たちが「結果につながらない無駄な努力は努力とは言えない」という言葉を使うとき、そこには「頑張っていなかったのだから悲惨な人生でもかわいそうでない」という論旨を含んでいるが、これは論理のすり替えである、ということだ。
具体的には、「頑張っていなかった」という言葉の意味が曖昧なのである。
確かに、「成果につながるような方向で頑張れていなかった」のは事実かもしれない。しかしだからといって直ちに「悲惨な人生でもかわいそうでないような『頑張っていなさ』」だったということにはならない。
通常、「たとえ妄信的であっても、いろいろなものを犠牲にして真面目に何かを頑張った人」が報われない姿には、哀れさを感じるものだろう。そう感じない人もいるだろうが、「犠牲にしたものの量」が、報われないときの「かわいそうさ」を基礎づけうることは大方の同意を得られると思う。
しかし、努力教患者は、ここを「努力不足」という言葉で混同する。言葉の曖昧さを利用して人をごまかす主張をするのはコミュニケーションの世界では当たり前に行われていることだが、ここでも行われているのである。
繰り返すと、努力教患者は、「『結果につながる努力をできなかったこと』を以て、『悲惨な人生でもかわいそうでないような頑張っていなさだった』と結論付ける論理の飛躍をしながら、報われない人々を傷つけている」ということである。



以上、まとめると、
「努力教患者は、正しい努力を選べた運の良さを考慮していない」
「努力教患者は、『報われなくてかわいそうになるような努力』と『結果につながるような努力』を混同している」
の2点に大きな問題がある。


そんなわけで、自分は努力教患者がとても嫌いだ。


これからも努力教を信仰し続け、また掲示板その他、外部に見える形で布教する人は、本記事で触れた論点を考慮してほしい。
このような考慮の上で、それでもなお努力教が正しい、という趣旨の主張であって初めて真摯に受け止める価値がある。




運のいい馬鹿はとても嫌いだ。