2020年9月12日土曜日

「努力教」患者の話



努力至上主義や自己責任論を脳死のように唱える論調がとても嫌いだ。


端的に言えば、自分は失敗者だからだ。努力なんて報われなくて当然の経験ばかりで年だけを経た人間なのだ。自分の学歴や資格と年収を考えると、おそらく国内最高レベルの報われていなさだと思う(病気等で働けない人は除く)。


努力については、


・成功するかどうかはほぼ運で決まるが、努力によっていくらか成功の確率が上がる
・現状を嘆いていてもクソなクソ人生は好転しないので、せめてマシなクソ人生にするために努力する


これ以外には言うことはないはずなのだが、掲示板などを見ていると、努力教患者が努力努力と唱えていることが多く、とても見苦しい。


努力教患者の好む言葉は「結果につながらない無駄な努力は努力とは言えない」というものだ。
この言葉には二つの問題がある。

一つ目。まずとても不思議なのは、「あなたはなぜ正しい努力を見つけることができたのか?」だ。これは運しかない。

「やり方を選べるような環境だった」「やり方を提案してくれる人がいた」「やり方を選ばないといけないと気づくことができた」「やり方を模索し、見事正しい努力方法を見つけられた」など、いろいろ要因はあるのだろうが、結局全て運だろう。
しかし、ラッキーマンからすれば自分の成果だけは努力のおかげでいらっしゃるらしい。


二つ目。
さらにひどいことに、努力教患者たちが「結果につながらない無駄な努力は努力とは言えない」という言葉を使うとき、そこには「頑張っていなかったのだから悲惨な人生でもかわいそうでない」という論旨を含んでいるが、これは論理のすり替えである、ということだ。
具体的には、「頑張っていなかった」という言葉の意味が曖昧なのである。
確かに、「成果につながるような方向で頑張れていなかった」のは事実かもしれない。しかしだからといって直ちに「悲惨な人生でもかわいそうでないような『頑張っていなさ』」だったということにはならない。
通常、「たとえ妄信的であっても、いろいろなものを犠牲にして真面目に何かを頑張った人」が報われない姿には、哀れさを感じるものだろう。そう感じない人もいるだろうが、「犠牲にしたものの量」が、報われないときの「かわいそうさ」を基礎づけうることは大方の同意を得られると思う。
しかし、努力教患者は、ここを「努力不足」という言葉で混同する。言葉の曖昧さを利用して人をごまかす主張をするのはコミュニケーションの世界では当たり前に行われていることだが、ここでも行われているのである。
繰り返すと、努力教患者は、「『結果につながる努力をできなかったこと』を以て、『悲惨な人生でもかわいそうでないような頑張っていなさだった』と結論付ける論理の飛躍をしながら、報われない人々を傷つけている」ということである。



以上、まとめると、
「努力教患者は、正しい努力を選べた運の良さを考慮していない」
「努力教患者は、『報われなくてかわいそうになるような努力』と『結果につながるような努力』を混同している」
の2点に大きな問題がある。


そんなわけで、自分は努力教患者がとても嫌いだ。


これからも努力教を信仰し続け、また掲示板その他、外部に見える形で布教する人は、本記事で触れた論点を考慮してほしい。
このような考慮の上で、それでもなお努力教が正しい、という趣旨の主張であって初めて真摯に受け止める価値がある。




運のいい馬鹿はとても嫌いだ。













2020年8月8日土曜日

馬鹿が使いたがる「本質」の話

本質的、とか、実質的、とかいう言葉があまり好きではない。


こういった言葉自体が問題、というわけではなく、こういった曖昧な言葉を「自分の主張の根拠として簡単に使いたがる態度」が嫌いなのだ。

実際、「それは本質的でない(からあなたの主張は採用できない)」といった言動を見ることは珍しくない。

今日見かけたのは、「Application Software」のことを「かつてはソフトと呼んだのに、いつのまにかアプリと呼ばれるようになったよなあ」という話題について話している掲示板にあった

「アプリという言い方は本質的、ソフトという言い方は本質的でない」

といった書き込みである。


こういう言説を見て即座に思うのは、「なんでそれが本質的といえるの?根拠は?」ということだ。


・アプリという表現の方が「OSではなくアプリ」という具体的な意味が特定される
・アプリなりソフトなりといった言葉を使用する場面(典型的には、アプリのダウンロードの場面など)では、通常、すでにハードウェアは適切に構成されていることが前提となっており、ハードとの区別は関心の対象となっていない

この2点を考えると、「アプリという表現の方がより場面に即した情報を含んでいる」ということができる。
これを根拠として「アプリという表現が本質的だ」と言うことは別におかしいことではない。


ただ問題は、「何がどう本質的なのか」を説明するつもりもないのに、呪文のように「本質」という表現を使って偉そうに語ることだ。
今回見かけた掲示板の書き込みも、上の2点をきちんと理解してなされたものかすら怪しいものである。「本質的」のような曖昧な表現に終始する行為は、こういった解釈活動を聞き手に押し付ける性質を持つ。自分の馬鹿さ、表現力のなさを聞き手に押し付けてしまうわけである。

「意味が曖昧なのになんだか重要そうな印象のある言葉」を使いたくなる動機は理解できる。「本質」「実質」「基本」とかそういうタイプの言葉だ。こういう力のある言葉を使われると、聞き手としては、つい「自分は本質が分かっていないのか」と、自分を責めてしまいやすくなり、言った側としては議論(?)に勝ったような形をとりやすい(実は何も勝っていないのだが)。まともに物を語れない馬鹿が、自分の立場や呪文の力に頼るのは普通に見かける心理である。


いつでも根拠を示すことができる準備がある人以外は、「本質的」というような言葉は使うべきでないだろう。




2020年5月18日月曜日

感傷に浸りたいときの話





例えばyoutubeなどで、「感傷に浸りたいときのbgm」みたいな感じの動画を見かけることが少なくない。そういうジャンルの音楽も結構好きなので、ときどき聴くことがある。


ふと、「感傷に浸りたい」って何なんだ?そもそも感傷ってなんだ?と思う。


字面からすると、感覚的には「痛かったことを思い出す」というようなイメージなのだけど、なぜ好き好んで痛い思いを思い出すのか?人は、痛いのが好きなのか?そんなわけないだろう?


そんなことを思いながら音楽を聴いていると、なんとなく思い出したのは、ずっと前に失くしたものと、失くす前のことだった。


結局、失くして痛かったことを思い出すことで、失くす前のうれしかった気持ちを思い出しているだけなんだろう。失くして痛かったから、その分だけ失くす前のうれしかった気持ちが際立って思い出される。

失くしてはしまったけど、失くしたから、失くす前のことが身に染みるんだろう。だから不快なばかりではないのだろう。




昔、漫画で見かけた


   愛してその人を得ることは最上である。
   愛してその人を失うことはその次に良い。


というサッカレーの言葉は、こういう意味だったりするのかなと思う。





2020年5月10日日曜日

下手糞が書いた本の話







故あって教育学についての本を読んでいるが、これが酷い。


文章がきわめて読みづらいのだ。


まず、やたらにテクニカルタームをギチギチに詰めて書かれている。さらに、一文が異常に長く、日本語なのに主語、述語、関係代名詞、修飾節・・・という具合に構文を整理しないと意味が分からない。酷い場合は、検索しても出てこないような勝手な造語(?)まで平気で使われていて何を言っているのかわからない。


誰でもわかる言葉で、一文はなるべく短く、といった「あたりまえのこと」がなぜできないのか。大学の先生方は頭が良すぎてまともな文章が書けなくなるのだろうか?
1ページ読み進めるだけでも、「何がどうしたって?」「ほんと文才ねえな」「つまりどういうことだってばよ?」「ど素人かよ」「馬鹿が書いたのか?」こんな独り言を何度もつぶやいてしまう。


確かにこちらが教育学についての素養が全くない初心者だから上手く読めない、という部分もあるんだろう。現にアマゾンレビューを見てみれば、評価はむしろ良い。おそらく、ある程度教育学についての知識がある人間にとっては優れた内容の本なんだと思う。


しかし、その本は、教育の基礎を学ぼうとする学生向け、また、関心を持つ一般市民向けを標榜している。「教科書」と呼ばれるような類の本らしい。
そうであれば、そういう読者を対象にした書き方をするべきなのではないか?この本は複数の執筆者によるものだが、中には分かりやすく書こうと工夫されていた先生も一部いたし、実際その章については不満はなかった。


しかし、これまで読んだうちの実に75%が「伝える姿勢/理解させる姿勢」を全く欠いている文章だったのだ。その有様で一体、教育の何を語るというのか。




自分は何一つまともにできていないので、何に対しても「すごいなあ」「自分にはできないな」と感じる方である。そんな自分でも眉をひそめるような酷い品質のものが商品としてドヤ顔で流通しているのにも出会うことはあるし、そんなときはとてもイライラする。


そんな本を読むことを余儀なくされてしまうと不快感もひとしおだ。




プロなら、特に文系のプロなら、もう少しまともな文章を書けよ。







2020年1月12日日曜日

蕁麻疹の話



しばらく書くことがないかと思ったら、来た。


シーフードスパゲティを作って食べたら、直後からだんだん身体がかゆくなってきて、数時間後には、体中びっしり蕁麻疹となった。かゆくてやってられない。


甲殻類アレルギーか何かなのだろう。と言うか小麦アレルギーの場合は本格的に困るから、とりあえず少しはましなものであってほしい。


間の悪いことに、ちょうど大事な時期なので病院に行く時間も惜しい。行こうか行くまいか・・・。


まあーーーーしかし、何から何までクソなタイミングでクソなことばかり起こる人生だわ。クソ。この人生を邪魔するために、何か大いなる力でも働いているのか?けったくそ悪い。クソが。




ただ、落ち着け。この人生は、今さら何がどうなったってもうどうせクソ人生なことは変わらない。これまでもこれからもクソだ。


それでも、マシなクソ人生にするために、やるべきこともやることも変わらない。
迷う必要はない。






クソ。

2019年12月18日水曜日

ギガが減る話



最近の人たちは高速データ通信容量が減ることを、「ギガが減る」と言うらしい。実際キャリアでもそのような表現がされていることがある。


「ギガ何」が減るんだよ?意味わからん。
という評価もできるし、この表現を見聞きするときの素直な感想でもある。


ただ、悪いことばかりでもない。


「ギガが減る」ことを正確に表現するのなら「月間高速通信利用残容量が減る」といった表現になり、文字が増える。


ある事柄を言葉で表現するときに、「良い表現」といえる基準の一つとして、「1文字当たりの情報量が多いこと」が挙げられると思う。言い換えると、「同じことを表すのならば、文字数が少ない方が優れた表現だ」ということである。


仮に「ギガが減る」という表現がすでに符丁として成立しており、その意味が相手方に一義的に伝わるのであれば、一文字当たりの情報量(情報密度)はとても多いといえる。「月間高速通信利用残容量」という言い方(漢字で11文字、音読の文字数で言うと21音)を、「ギガ」という2文字で言い換えられるのならば、その有用性は高いとみるべきだ。


もちろん、「聞き手に不快な印象を与えないのが良い表現である」という要素を重視するのならば「ギガが減る」というのは(今のところ)劣った表現である。


ただ、情報密度の観点からはそれはそれで悪くない表現なのだと思う。




ちなみにこのような情報密度の観点からすると、「マニュアルトランスミッション車」のことを「マニュアル」と呼ばずに「ミッション」と表現するのは、明確に劣った表現だ。正直、聞くたびにモヤモヤする。
文脈がない場合(つまり発言の一言目に使う表現の場合)、仮に「ミッション」とだけ言ったところで、聞き手としては「何トランスミッションだよ?マニュアル?オートマチック?」となるからだ。つまり、情報としての一義性が低いのである。
文字数が少なく済むのなら一義性が低くなる(情報量が減る)としてもそれはそれでメリットもある。
しかし、「マニュアル」と「ミッション」は文字数(音数)も同じだ。したがって、「ミッション」という表現は、一文字当たりの情報量が少なく、劣った表現(下位互換)だといえる。




こんなわけで、「ギガが減る」のもそれはそれで悪くない、と思う。


ただ、それでも「ギガが減る」と聞くとクスっとなる。



















2019年12月14日土曜日

falla extra virgin olive oil の話





オリーブオイルってそんなに味あるか?ギトギト感さえなければ銘柄なんて何でもよくないか?という気持ちがあるので、特に銘柄にはこだわらず、とりあえず500ml300円くらい、という価格帯だけで決めて買っている。




先日ディスカウントストアの「サンディ」で買ってみたのが、「ファラ エキストラバージン オリーブオイル」という商品だ。500ml298円だった。




使い始めて気づいたのが、とても香りが強いことだ。鍋などで軽く熱したりすると、梅を連想するようなすごく派手なにおいが出るのが気に入った。強めの塩で茹でたパスタにからめるだけで味見してみても結構おいしい。




オリーブオイルは安物しか使ったことがないし、そんなにいろいろな銘柄を試してきたわけでもないが、味の素や業務スーパーの低価格帯のものなどと比べても華やかな香りに感じた。


華やかな香り、というのは、見ようによっては「香りが派手過ぎて下品」とか「ジャンクな味」という評価にもなりうるのかもしれないが、とりあえず気に入った。使っているうちにマイナス面にも気づいてしまうのかもしれないが、今のところは特に気になる点はない。








「違いの分からない人間」にもわかるような明瞭な刺激は良い。上品でも風流でもないかもしれないが、楽しい。

2019年12月3日火曜日

そういえば思い出した話





このところ、「将来うまくいっているイメージ」が一切わかなくなっている。もしも今やっていることで結果が出ても、その先の人生がうまくいくルートが思いつかないのだ。


そのせいで、何をやってもダメ、何もかもうまくいかない、という気持ちでいる。


どうせうまくいかないのなら、何をどう頑張っても仕方ないのではないか?どうせ報われない努力なら、しないほうが得なのではないか?この先の人生が上手く行きようがないのなら、生きてる意味は?


そういう気分に沈んでいることが多い。


ただ、ふと思いだした。きっかけはわからない。



今さら自分に「まともな将来」「きれいな人生」「うまくいく生活」とかそういうものなんて望むべくもないのだ。そんなことは何年も前から分かっていた。無駄な努力で15年間を無駄にしたときに、それはもうわかった。


自分が今新しい努力をしているのは、「立派な人生」を掴み取るためではない。クソなクソ人生を、少しはマシなクソ人生にするためだ。


そんな簡単なことを、この半年くらい、なぜか忘れていた。随分時間を無駄にしてしまった。


思い出したら少し気が楽になり、頑張る気力が出てきた。











2019年11月21日木曜日

夢に苛まれた話


今さら何をやってももう遅いのでは?意味がないのでは?という気持ちが普段から強い。

そのため、やりたいことに対する努力も、できるときとできないときがある。

とはいえ、四の五の言っているわけにもいかないので、何とかして気力を上げ、なるべく気力が下がらないように気を付けている。具体的には、「目を覚ましてからの初動で、やるべきことをする。朝食よりも何よりも先にする」などである。やるべきことを少しでもできれば、わずかでも自己肯定感が得られ、それが次の努力につながる。



夢を見た。内容は覚えていないが、とにかく、自分が高齢になってしまったことを強く意識し、何もかも手遅れだと感じるようなものだった。

夢の中は無防備なもので、目が覚めたときにはもう何もする気が起きていなかった。実際、ほぼ何もできなかった。

その前日は気力を落とさずに頑張れた日だったので、落差にもうんざりした。


クソみたいな人生で、クソみたいな精神状態の中で足掻いているのに、自分でもさらに状態を悪くしていたのでは世話がない。

自分で夢を見て自分の状態を悪くしている。なんというか、無駄の多い身体だ。そういえば、この身体は結構そんなことが多い。他人様の実情はわからないし、そんなことを思っても仕方ないが、人より損している感を抱いてしまう。


クソ。




2019年11月20日水曜日

二重まぶた信仰の話





掲示板などを見ていると、二重まぶたを異常に褒め、一重をひたすら貶すような意見を結構見かける。

自分は一重だが、特にそれで自分の顔が不細工になっていると思ったことはない。というか、一時的に二重まぶたにすることはできるが、正直その顔は濃すぎて好きではない。

華やかさで言えばもちろん二重が圧倒的だが、「顔が美しいかどうか」は、目が二重かどうかなんていう些細なことで決まらないと思っている。そんなことより大事なのは、骨格とかパーツ配置とか鼻だろう。二重の大きなお目目をしていても、他が整っていなければ、自分にはそれが美人だとは到底思えない。逆に他が全部同じように整っているのなら、二重と一重は好みの問題だろう。

しかし、一抹の劣等感?でも抱いているのか、一重まぶた貶しを見ると、どうにもイライラする。

本当に美しい顔をした人なら、他人の顔自体を貶すことはあっても、他人の目が一重であることに絞ってわざわざこき下ろすような情熱はないのではないか、と思う。一生懸命ネット上で喚くのは、そこにしか拠り所がないからなのではないか。

だから、一重を極端にこき下ろす人は、要するに「目が二重なことにしか取り柄がない不細工」と「目が二重でさえあれば美人になれたはずだとでも思っている不細工」の二通りしかいないのだと思う。

それはわかっているのだが、なぜかそういう意見を素通りできずに見て、また不細工が吠えている、と思ってしまう。


あるいはイライラしたくて見ているのか?よくわからない。よくわからないが、ああいう言説はとても嫌いだ。



(冒頭画像は、LhcCoutinhoによるPixabayからの画像)


2019年11月19日火曜日

カップ焼きそばの話





ここ数年、カップ焼きそばを食べる機会がずいぶん減った。

ふと店で珍しそうなのが安く売られているのに気付いたので、買ってみた。背脂にんにくチーズ味みたいな商品だ。タレは醤油ベースのようだった。

食べてみると、普通に不味い。途中で捨てはしなかったが、それを考えるくらいにはまずかった。

にんにくとかチーズとかの、どうしたっておいしいはずの食材を使って何をどうしたらこんなに不味くなるんだ?背脂だって別に嫌いではないし。

しかしネット上での評判を調べると、悪くないんだな・・・単に自分の好みに合わなかっただけなのか?


カップ焼きそばは特売くらいでしか買わないが、いつ買っても不味いように思う。メーカーは選んで買っているが、それでもいつも不味いのだ。売れなかったような不味い色物だから特売に出る、というだけの話なんだろう。そんなメカニズムで、日々、「カップ焼きそばは遍く不味い」というイメージが強くなっている。

カップ焼きそばはカロリーが高いので、不味いものを食べるために「お金→カロリー」変換をしてしまった場合の残念感は大きい。

いいかげん特売カップ焼きそばを買うのをやめるべき時が来ているのだろう。




(冒頭画像は、Ulrich DreglerによるPixabayからの画像)


2019年11月18日月曜日

以前いた街が懐かしかった話





用があって数年前まで住んでいた街を訪れた。今住んでいる場所から自転車で行ける程度の距離だが、同じ街の端から端までくらい離れているので、なかなか行く機会はなかった。

せっかくだから住んでいた時によく使っていた道などを通っていると、妙にうれしいような楽しいような気持ちになった。不思議だった。ここに住んでいた頃だってあれもダメこれもダメで状態はろくでもなくて、大して良いこともなかったはずなのに、と思った。

今と何が違うのか、と思えば、希望の量が違ったのだと気づいた。そこにいた頃も行き詰まってはいたが、まだ多少元気だったのだ。
それから今日まで数年間かけて、結果も出ずに努力が挫け続けて年齢だけ重ねた。それにより、単純に希望の残量が減ったのだ。


ふと思った。
年を経るにつれて希望が減るのなら、これからもなけなしの努力が折れ続けるのなら、数年後はどうだろう。例えばどこかに引っ越してから数年後に今いる場所を訪ねたとき、やっぱり「あの頃はまだ希望があったよな」と思うのだろうか。クソつまらない今の生活でさえ、きれいで愛しく懐かしく思えるのだろうか。

そんな風に考えると、夢があるな。クソみたいな夢がある。



(冒頭画像は、songping wangによるPixabayからの画像)


2019年11月17日日曜日

怖い話の隣人の大家の話





怖い話は結構好きで、読み漁っていた時期がある。

ネットでよく見る怖い話で、こんなのがある。

大要、

・女子大生がマンションで一人暮らし
・部屋の壁に穴が開いていることに気づく
・穴を覗くといつ見ても赤いので、隣の部屋の様子が気になる
・大家に聞いてみる
女子大生「私の隣の部屋にはどういう人が住んでいるのですか?」
大家「あなたの隣の部屋には病気で目が赤い人が住んでいますよ。」


というものだ。

とりあえず思うのは、こうだ。
「どんな人?」と聞かれて「目が赤い人」とか言うか?

「どういう人?」と聞かれれば、普通、「30代くらいのサラリーマン」とか「一人暮らしのおばあさん」とか「子連れのお母さん」とかそういうことを答えるのではないかと思う。大家は目の色で住人を識別しているのか?おかしいだろ。目が赤いから何だって言うんだよ。

物語をコンパクトに進めるために多少非現実的な動きをさせられる登場人物、というのはよく出会うものではあるが、それはそれとしてやっぱりどうにも可笑しい。「目が赤い人が住んでいますよ(ドヤァァァァァァ)」という感じに見えて、どうしても笑ってしまう。


そんなわけで、あの怖い話はすごく好きだ。思い出すだけで笑ってしまうくらい好きだ。ささやかではあるが、それはある種の財産と言ってもよいものだ。









2019年11月16日土曜日

オリーブオイルと白ワインのにんにく醤油ラーメンの話





にんにくが好きだ。特に、油で炒めて香りを出したにんにくが好きだ。

普段作る醤油ラーメンは、鍋一つで、

①刻みにんにくをキャノーラ油で香ばしくなるまで炒める
②鶏肉などの肉を入れて炒める
③肉に火が通ったら野菜(もやし、人参その他好きなもの)を入れて軽く炒める
④火を止めて、粉末鶏ガラ、砂糖、日本酒、しょうゆを入れ、具材が十分浸るくらいに水を入れ、中火にかける
⑤沸騰したら、中華麺を加えてほぐす
⑥再度沸騰したら上から卵を割り入れてふたをし、黄身は生のまま、白身にやや火が通ったくらいで、完成


といった流れで作る。別にどこで見たレシピでもない、勝手に自分で気に入っている作り方だ。

とにかく「いったん鍋から降ろす」とか、「これとは別に麺を茹でておき・・・」とかいうめんどくさい工程が大嫌いなので、かなりガサツな出来になるが、味的には気に入っている。生焼けにんにくのヒステリックな味が目障りで失敗したこともあるが、しっかり揚げるとおいしくなった。


今回は在庫のキャノーラ油の残りがほとんどなかったので、炒め油はオリーブオイルにした。また、冷蔵庫に置いていた白ワインの残りを処分したかったし、自分の味付けなら多少の酸味は合いそうに思ったので、日本酒の代わりにワインを使うことにした。あとは鷹の爪をちぎって入れた。


やってみたら、中華っぽさはあまりなかったが、予想通りややさっぱりめの味でおいしくなった。満足。

最近、白ワインを料理に使うのが結構楽しくなってきた。


(冒頭画像は、Kasjan FarbiszによるPixabayからの画像)


2019年11月15日金曜日

恥に包まれる話



近く、親族で集まる機会がありそうだ。


何をやっても結果が出ず、振り返ってみれば無駄な努力ばかりを何年も何年も何年も続けて、すっかり社会不適合者になってしまった。そんな風になってしまうと、親族や古い知人などにあまり会いたくなくなってくる。「まともに」生きられている人たちに会うのはむしろ苦痛だ。

報告したいようなことも別にない上に、逆に非難されるのは普通に辛い。言い返せることなどない。運だろうと才能だろうと執念だろうと、とにかく結果を出すことが全てだ。現に結果を出せていないのだから、恥じるしかない。何をしても何も結果が出ないままに年だけ重ねてしまった人間の成れの果て、それが自分だ。まともな社会人になり損なってしまった自分を日々恥じながら生きている。

恥の気持ちは結構重い。そもそも生きているだけで恥ずかしいので、旧知・初対面問わず、「まともな人」と会うのに積極的でなくなる。

人と会うことが減ると、自分の状態を世の中に合わせて修正する機会が減る。おそらく今、自分ではわからなくても、何かしら視野狭窄に陥っているのだろうと思う。

しかし、そこから脱する手段も見つからない。そもそも人と会うこと自体を避けがちになるし、誰と会っても何をしていても、「人生に失敗した自分が恥ずかしい」「手ひどく馬鹿にされたくない」という、恥と恐怖感で頭がいっぱいだ。

おそらく、年齢が若いうちに、何かを目指すのをやめてとにかく普通の生活、普通の人生をまず得るべきだったのだと思う。若ければ許されること、若ければ恥じなくてもよいことは、きっと少なくなかったはずだ。

そんなことを言っても、今はもう遅い。かといって、明るく開き直るメンタルもなさそうだ。

だから、この閉塞感と付き合いながら、できる努力をするしかない。クソ。



親族の集まりに行くべきだと考えたのも、行く、と答えたのも自分だ。だから、ちゃんと用意して行くつもりだ。でもそれはそれとして辛いし、そのことで精神を削られるので、本来やるべきことに取り掛かる気力が出ない。


そんなわけで、またここに吐き出している。