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2020年9月12日土曜日

「努力教」患者の話



努力至上主義や自己責任論を脳死のように唱える論調がとても嫌いだ。


端的に言えば、自分は失敗者だからだ。努力なんて報われなくて当然の経験ばかりで年だけを経た人間なのだ。自分の学歴や資格と年収を考えると、おそらく国内最高レベルの報われていなさだと思う(病気等で働けない人は除く)。


努力については、


・成功するかどうかはほぼ運で決まるが、努力によっていくらか成功の確率が上がる
・現状を嘆いていてもクソなクソ人生は好転しないので、せめてマシなクソ人生にするために努力する


これ以外には言うことはないはずなのだが、掲示板などを見ていると、努力教患者が努力努力と唱えていることが多く、とても見苦しい。


努力教患者の好む言葉は「結果につながらない無駄な努力は努力とは言えない」というものだ。
この言葉には二つの問題がある。

◇
一つ目。まずとても不思議なのは、「あなたはなぜ正しい努力を見つけることができたのか?」だ。これは運しかない。

「やり方を選べるような環境だった」「やり方を提案してくれる人がいた」「やり方を選ばないといけないと気づくことができた」「やり方を模索し、見事正しい努力方法を見つけられた」など、いろいろ要因はあるのだろうが、結局全て運だろう。
しかし、ラッキーマンからすれば自分の成果だけは努力のおかげでいらっしゃるらしい。


◇
二つ目。
さらにひどいことに、努力教患者たちが「結果につながらない無駄な努力は努力とは言えない」という言葉を使うとき、そこには「頑張っていなかったのだから悲惨な人生でもかわいそうでない」という論旨を含んでいるが、これは論理のすり替えである、ということだ。
具体的には、「頑張っていなかった」という言葉の意味が曖昧なのである。
確かに、「成果につながるような方向で頑張れていなかった」のは事実かもしれない。しかしだからといって直ちに「悲惨な人生でもかわいそうでないような『頑張っていなさ』」だったということにはならない。
通常、「たとえ妄信的であっても、いろいろなものを犠牲にして真面目に何かを頑張った人」が報われない姿には、哀れさを感じるものだろう。そう感じない人もいるだろうが、「犠牲にしたものの量」が、報われないときの「かわいそうさ」を基礎づけうることは大方の同意を得られると思う。
しかし、努力教患者は、ここを「努力不足」という言葉で混同する。言葉の曖昧さを利用して人をごまかす主張をするのはコミュニケーションの世界では当たり前に行われていることだが、ここでも行われているのである。
繰り返すと、努力教患者は、「『結果につながる努力をできなかったこと』を以て、『悲惨な人生でもかわいそうでないような頑張っていなさだった』と結論付ける論理の飛躍をしながら、報われない人々を傷つけている」ということである。



◇
以上、まとめると、
「努力教患者は、正しい努力を選べた運の良さを考慮していない」
「努力教患者は、『報われなくてかわいそうになるような努力』と『結果につながるような努力』を混同している」
の2点に大きな問題がある。


そんなわけで、自分は努力教患者がとても嫌いだ。


これからも努力教を信仰し続け、また掲示板その他、外部に見える形で布教する人は、本記事で触れた論点を考慮してほしい。
このような考慮の上で、それでもなお努力教が正しい、という趣旨の主張であって初めて真摯に受け止める価値がある。




運のいい馬鹿はとても嫌いだ。













2020年8月8日土曜日

馬鹿が使いたがる「本質」の話

本質的、とか、実質的、とかいう言葉があまり好きではない。


こういった言葉自体が問題、というわけではなく、こういった曖昧な言葉を「自分の主張の根拠として簡単に使いたがる態度」が嫌いなのだ。

実際、「それは本質的でない(からあなたの主張は採用できない)」といった言動を見ることは珍しくない。

今日見かけたのは、「Application Software」のことを「かつてはソフトと呼んだのに、いつのまにかアプリと呼ばれるようになったよなあ」という話題について話している掲示板にあった

「アプリという言い方は本質的、ソフトという言い方は本質的でない」

といった書き込みである。


こういう言説を見て即座に思うのは、「なんでそれが本質的といえるの?根拠は?」ということだ。


・アプリという表現の方が「OSではなくアプリ」という具体的な意味が特定される
・アプリなりソフトなりといった言葉を使用する場面(典型的には、アプリのダウンロードの場面など)では、通常、すでにハードウェアは適切に構成されていることが前提となっており、ハードとの区別は関心の対象となっていない

この2点を考えると、「アプリという表現の方がより場面に即した情報を含んでいる」ということができる。
これを根拠として「アプリという表現が本質的だ」と言うことは別におかしいことではない。


ただ問題は、「何がどう本質的なのか」を説明するつもりもないのに、呪文のように「本質」という表現を使って偉そうに語ることだ。
今回見かけた掲示板の書き込みも、上の2点をきちんと理解してなされたものかすら怪しいものである。「本質的」のような曖昧な表現に終始する行為は、こういった解釈活動を聞き手に押し付ける性質を持つ。自分の馬鹿さ、表現力のなさを聞き手に押し付けてしまうわけである。

「意味が曖昧なのになんだか重要そうな印象のある言葉」を使いたくなる動機は理解できる。「本質」「実質」「基本」とかそういうタイプの言葉だ。こういう力のある言葉を使われると、聞き手としては、つい「自分は本質が分かっていないのか」と、自分を責めてしまいやすくなり、言った側としては議論(?)に勝ったような形をとりやすい(実は何も勝っていないのだが)。まともに物を語れない馬鹿が、自分の立場や呪文の力に頼るのは普通に見かける心理である。


いつでも根拠を示すことができる準備がある人以外は、「本質的」というような言葉は使うべきでないだろう。




2020年5月10日日曜日

下手糞が書いた本の話







故あって教育学についての本を読んでいるが、これが酷い。


文章がきわめて読みづらいのだ。


まず、やたらにテクニカルタームをギチギチに詰めて書かれている。さらに、一文が異常に長く、日本語なのに主語、述語、関係代名詞、修飾節・・・という具合に構文を整理しないと意味が分からない。酷い場合は、検索しても出てこないような勝手な造語(?)まで平気で使われていて何を言っているのかわからない。


誰でもわかる言葉で、一文はなるべく短く、といった「あたりまえのこと」がなぜできないのか。大学の先生方は頭が良すぎてまともな文章が書けなくなるのだろうか?
1ページ読み進めるだけでも、「何がどうしたって?」「ほんと文才ねえな」「つまりどういうことだってばよ?」「ど素人かよ」「馬鹿が書いたのか?」こんな独り言を何度もつぶやいてしまう。


確かにこちらが教育学についての素養が全くない初心者だから上手く読めない、という部分もあるんだろう。現にアマゾンレビューを見てみれば、評価はむしろ良い。おそらく、ある程度教育学についての知識がある人間にとっては優れた内容の本なんだと思う。


しかし、その本は、教育の基礎を学ぼうとする学生向け、また、関心を持つ一般市民向けを標榜している。「教科書」と呼ばれるような類の本らしい。
そうであれば、そういう読者を対象にした書き方をするべきなのではないか?この本は複数の執筆者によるものだが、中には分かりやすく書こうと工夫されていた先生も一部いたし、実際その章については不満はなかった。


しかし、これまで読んだうちの実に75%が「伝える姿勢/理解させる姿勢」を全く欠いている文章だったのだ。その有様で一体、教育の何を語るというのか。




自分は何一つまともにできていないので、何に対しても「すごいなあ」「自分にはできないな」と感じる方である。そんな自分でも眉をひそめるような酷い品質のものが商品としてドヤ顔で流通しているのにも出会うことはあるし、そんなときはとてもイライラする。


そんな本を読むことを余儀なくされてしまうと不快感もひとしおだ。




プロなら、特に文系のプロなら、もう少しまともな文章を書けよ。







2019年11月20日水曜日

二重まぶた信仰の話





掲示板などを見ていると、二重まぶたを異常に褒め、一重をひたすら貶すような意見を結構見かける。

自分は一重だが、特にそれで自分の顔が不細工になっていると思ったことはない。というか、一時的に二重まぶたにすることはできるが、正直その顔は濃すぎて好きではない。

華やかさで言えばもちろん二重が圧倒的だが、「顔が美しいかどうか」は、目が二重かどうかなんていう些細なことで決まらないと思っている。そんなことより大事なのは、骨格とかパーツ配置とか鼻だろう。二重の大きなお目目をしていても、他が整っていなければ、自分にはそれが美人だとは到底思えない。逆に他が全部同じように整っているのなら、二重と一重は好みの問題だろう。

しかし、一抹の劣等感?でも抱いているのか、一重まぶた貶しを見ると、どうにもイライラする。

本当に美しい顔をした人なら、他人の顔自体を貶すことはあっても、他人の目が一重であることに絞ってわざわざこき下ろすような情熱はないのではないか、と思う。一生懸命ネット上で喚くのは、そこにしか拠り所がないからなのではないか。

だから、一重を極端にこき下ろす人は、要するに「目が二重なことにしか取り柄がない不細工」と「目が二重でさえあれば美人になれたはずだとでも思っている不細工」の二通りしかいないのだと思う。

それはわかっているのだが、なぜかそういう意見を素通りできずに見て、また不細工が吠えている、と思ってしまう。


あるいはイライラしたくて見ているのか?よくわからない。よくわからないが、ああいう言説はとても嫌いだ。



(冒頭画像は、LhcCoutinhoによるPixabayからの画像)


2019年11月13日水曜日

クラクションの話




クラクションがものすごく嫌いだ。昔から嫌いだ。とりわけ長押しが嫌いだ。

確かに変な割り込み方をされたりしたら怒りを示したくなる気持ちはわかるが、だからといってもうすでに終了してしまった割込みに対してクラクションを鳴らし続けて一体何の役に立つのだろうか?運転手の満足感と引き換えにクソうるさい大音響で周りの人間を苦しめる。

安全確保のために必要なのであればいくらでも鳴らせばよいが、そうは思えない状況で鳴らしているドライバーがあまりに多すぎるように感じる。地域性もあるのかもしれない。

正直、ブーブーブーブー馬鹿みたいに無駄にクラクションを鳴らしている車を見ると、できれば今すぐに自分が見ている前で自損事故で死んでほしい、と思ってしまうくらいイライラする。

もはや無駄クラクションに出会うことが常態化してしまっている。そのため、クラクションを聞くと反射的に「あぁ?死ねよ。」と思ってから振り返り、なるほどこの状況なら鳴らすのも無理はない、死ねとか思ってすみません、と思ったりすることもある。

もう少し無駄鳴らしが減ってくれればと思うが、まあここまで苛烈に嫌っている人間も少ないのだろうから、きっとこのままなのだろう。

というか自分でも、ここまで嫌うことないだろう、と思う。


よくわからないくらいクラクションが嫌いだ。






2019年11月10日日曜日

踏切の話




踏切が嫌いだ。

呪詛のような記事ばかり書いていて言うのも何だが、普段自分はあまり怒らないほうだ。

しかし、踏切で引っかかると途端に怒りに包まれる。

最高にイラつくのは、「遮断機を下ろしたくせになかなか電車が来ず、その間に反対向きの電車まで増える」という現象だ。これがコンボで続くと開かずの踏切になるわけだが、幸い自分の行動範囲では開かずの踏切はない。しかし、引っかからずに踏切をやり過ごせることはあまり多くない。

遮断機下ろすならさっさと通れよ。さっさと通らないならとりあえず遮断機上げろよ。モタモタモタモタモタモタモタモタいい加減にしてくれ。

なぜこんなことでこんなにイラつくのかわからないが、人にはきっと人ごとに「固有怒りトリガー」のようなものがあるのだろう。


しばらく前に、開かずの踏切?でブチ切れたオッサンが遮断機をノコギリで切って車で通過した、というニュースを見た。違法だし迷惑だし危ないからしてはいけないしそんなことは絶対にしないが、それでも正直、胸のすく思いがした。


何が何だかわからないが、とにかく踏切は嫌いだ。


(冒頭画像は、yogi0_0によるPixabayからの画像)