2020年8月8日土曜日

馬鹿が使いたがる「本質」の話

本質的、とか、実質的、とかいう言葉があまり好きではない。


こういった言葉自体が問題、というわけではなく、こういった曖昧な言葉を「自分の主張の根拠として簡単に使いたがる態度」が嫌いなのだ。

実際、「それは本質的でない(からあなたの主張は採用できない)」といった言動を見ることは珍しくない。

今日見かけたのは、「Application Software」のことを「かつてはソフトと呼んだのに、いつのまにかアプリと呼ばれるようになったよなあ」という話題について話している掲示板にあった

「アプリという言い方は本質的、ソフトという言い方は本質的でない」

といった書き込みである。


こういう言説を見て即座に思うのは、「なんでそれが本質的といえるの?根拠は?」ということだ。


・アプリという表現の方が「OSではなくアプリ」という具体的な意味が特定される
・アプリなりソフトなりといった言葉を使用する場面(典型的には、アプリのダウンロードの場面など)では、通常、すでにハードウェアは適切に構成されていることが前提となっており、ハードとの区別は関心の対象となっていない

この2点を考えると、「アプリという表現の方がより場面に即した情報を含んでいる」ということができる。
これを根拠として「アプリという表現が本質的だ」と言うことは別におかしいことではない。


ただ問題は、「何がどう本質的なのか」を説明するつもりもないのに、呪文のように「本質」という表現を使って偉そうに語ることだ。
今回見かけた掲示板の書き込みも、上の2点をきちんと理解してなされたものかすら怪しいものである。「本質的」のような曖昧な表現に終始する行為は、こういった解釈活動を聞き手に押し付ける性質を持つ。自分の馬鹿さ、表現力のなさを聞き手に押し付けてしまうわけである。

「意味が曖昧なのになんだか重要そうな印象のある言葉」を使いたくなる動機は理解できる。「本質」「実質」「基本」とかそういうタイプの言葉だ。こういう力のある言葉を使われると、聞き手としては、つい「自分は本質が分かっていないのか」と、自分を責めてしまいやすくなり、言った側としては議論(?)に勝ったような形をとりやすい(実は何も勝っていないのだが)。まともに物を語れない馬鹿が、自分の立場や呪文の力に頼るのは普通に見かける心理である。


いつでも根拠を示すことができる準備がある人以外は、「本質的」というような言葉は使うべきでないだろう。